指差し坊や

原人型世界認識〜adam's view

――あなたが、あなたそのもので、在って、良い

1章 「無意識」は根底にあらず

20世紀は「無意識」の時代でした。
精神医学者ジークムント・フロイト(1856−1939)が提出した「無意識」という概念。
それはいまや、私たちのコモン・センス(共通認識)と化しています。
表層の「日常意識」の下には、「無意識」という領域があって、それは「混沌」としている。
つまり、人間の心の深層部は、「混沌」とした「暗闇」である。

果たして、本当にそうなのでしょうか?

いま、わたしには、明るい光が見えるような気がします。
「無意識」という雲間から輝く、太陽の光が。
澄み渡った青空も見えます。
まるで朝の光のように、その光はやさしくわたしを包みます。

「無意識」とは、あくまで、「中途」に在る領域なのです。
青空の中間部に、雲が漂うように――。

2007年現在、
わたしたちは、その中途の「無意識」ばかりではなく、
さらにその深層にある領域にも、
はっきりと具体的に、目を向けて行く時期に来ているのではないでしょうか。

では、「無意識」の深層に在る、もう一つの領域とは、何か?

……

その領域を考察していくには、
視点をさかのぼらせていく必要があります。
「人間のこころ」というものへの視点を、ずっとさかのぼらせていく必要があります。
数万年、数十万年、いや、――数百万年と。

つまり、視点を、人間の“はじまり”のとき――「原人」の時代へと、
さかのぼらせていく必要があるのです。

重要な鍵は、「原人」の時代にあります。
「原人」の時代こそ、わたしたち「人間のこころ」の“原点”なのです。
わたしたち「人間のこころ」の構造を真に知るには、
その“はじまり”を、数百万年前の「原人」のときにまでさかのぼらせる必要があります。

もう一度繰り返しますが、「無意識」は、「根底」ではありません。

では、まずここで少しばかり、人間(human being)の歴史について振り返ってみましょう。
インマ

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2章 人間(human being)の歴史

“はじめの人間”――「原人」は、およそ百数十万年〜数百万年前に、
東アフリカの地で誕生しました。
「原人」とは一般に、「ホモ・エレクトス」という名称で呼ばれます。
それ以前に地球上に生息していたのは「類人猿」でした。
東アフリカの地において、その「類人猿」は進化を果たし、
ついに“はじめの人間”――「原人」が誕生したのです。

「原人」の前段階の「類人猿」の特徴には、
樹上で枝からぶらさがるのに適した長くてよく動く腕、
幅広い肩、大きめの脳、しっぽがない、などがあります。
現在地球上に生存する「類人猿」は、
アフリカに、ゴリラ、チンパンジー、ボノボ(ピグミーチンパンジー)の3種、
東南アジアにオランウータンとテナガザル約10種がいます。
「類人猿」はおよそ2500万年前ごろに誕生し、いま現存するよりももっと多くの種が、
かつてはアジア・アフリカなど広い地域に生息していました。

ただ、大昔に生息していたそれら多様な「類人猿」のうち、
「原人」に進化し得たのは、東アフリカに住んでいた「類人猿」だけでした。
東アフリカ以外の地域に住む「類人猿」は、
のちにゴリラやオランウータンなどに分かれていくことになります。

東アフリカで誕生し、その後もそこにとどまりつづけた「原人」は、
後に「ネアンデルタール人」やわたしたち「ホモ・サピエンス」に
進化することになります。
一方、東アフリカにとどまらず、その後アジアなどに渡った「原人」もいました。
中国で発見された「北京原人」がその代表例です。

ただ、現在地球上に住むわたしたちホモ・サピエンスの直接の先祖になったのは、
東アフリカにとどまり続けた「原人」グループのみです。
その「原人」は他の「ホモ・エレクトス」と区別され、
「ホモ・エルガステル」※という名で呼ばれています。
言い方を変えると、この「ホモ・エルガステル」は、
後にアジアにわたった「北京原人」などの「ホモ・エレクトス」の初期段階である、
ということが出来ます。(参考:『5万年前に人類に何が起きたか?〜意識のビッグバン』
リチャード・G・クライン、ブレイク・エドガー=著 鈴木淑美=訳 新書館 2004)

つまり、この「ホモ・エルガステル」こそが、
(現段階では)真の「原人」――“はじめの人間”と言えるのではないでしょうか。

※「ホモ・エルガステル」とは『働くヒト』という意味です。
進化の系統図
以上が、人間(human being)の歴史を簡略化して述べたものですが、
その歴史の中で、特に重要な出来事があります。

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3章 「無意識」〜ものとものを結びあわす力

それは、数万〜数十万年前※に、
わたしたちホモ・サピエンスに起こった「無意識」の発生という出来事です。
「無意識」の発生は、
「初期人類(原人、ネアンデルタール人はじめとする別種の人類)」と、
わたしたち「現生人類(ホモ・サピエンス)」を分かちました。
※ホモ・サピエンスの誕生を、およそ20万年前とする研究者もいれば、5万年前とする研究者もおり、その年代の特定は諸説に分かれます。よってこの文章では「数万〜数十万年前」とその年代を幅広く取っておきます。

「初期人類」と、わたしたちホモ・サピエンスとでは、その世界認識が異なっています。
上に述べたように、ホモ・サピエンスは、それまでの初期人類には無かった、
「無意識」というものを新しく持ちあわせるようになったからです。
これは、決定的と言っていいほど、大きな違いです。

ネアンデルタール人のこころ

その「無意識」が発生した背景には、
数万〜数十万年前に起こった、ホモ・サピエンスの“遺伝子の変異”があります。
この“遺伝子の変異”によって神経系が変化し、
ホモ・サピエンスの脳は、
左脳と右脳がたがいに“つながり”を持ちはじめるようになったのです。

それまでの「原人」や「ネアンデルタール人」などの初期人類の脳においては、
左脳と右脳はそれぞれ、独立して働いていました。
初期人類の脳においては、右脳・左脳の働きが《個別に(別々に)特化》していたのです。

この、初期人類の《特化した脳》という視点をはじめに提唱したのは、
考古学者のスティーヴン・ミズンです(『心の先史時代』1998)
ミズンは初期人類の知能を《個別に特化》したものとし、
それら知能を「一般知能」「博物的知能」「社会的知能」「地術的知能」
などに区分けしました。

一方、わたしたちホモ・サピエンスの知能を、
ミズンは《互いに流動的》である、としました。
左脳・右脳に“つながり”が生まれ、
違う部位にあった知能同士が互いに交流をしはじめるようになったからです。

細かい部分において、わたしはミズンと考えが異なるところがありますが、
初期人類のこころを《互いに(別々に)特化した》ものとし、
新しい現生人類のこころを《互いに(つながりあって)流動的》とするミズンの視点は、
わたしたち「人間のこころ」を考える上で、非常に重要です。

ホモ・サピエンスのこころ

ミズンが《認知的流動性》と呼ぶもの――それがつまり「無意識」というものです※。
※この《流動的》な「無意識」の働きを、再びできるだけ純粋なかたちで取り出そうとする、近年の中沢新一氏の試みもありますが、それも大変興味深いものです。中沢氏は《流動的》な「無意識」の本質を、その高次元な《超越性》にあるとしています。『対称性人類学』(2004)『芸術人類学』(2006)など。

・初期人類    ……《個別に特化した》世界認識 
・ホモ・サピエンス……《互いに流動的》な世界認識 =「無意識」

わたしは、「無意識(認知的流動性)」の働きの本質を、
「ものとものを結びあわす力」であると定義します。
「無意識」の働きの、一番の骨に当たるもの、その本質を取り出すと、
こうなるのではないかと考えます。
この「ものとものを結びあわす力」――の爆発的増大※こそが、
わたしたちホモ・サピエンスと初期人類とを分かった要因なのです。
※その背景には、ミラーニューロンの存在、またブローカ野の発達などがありますが、詳しくは『マイーム』をお読み下さい。

ものとものを結びあわす力」が発生した結果、
ホモ・サピエンスの内面には、「時系列」が発生しました。
過去―現在―未来、という認識。または、
昨日―今日―明日、という認識。
ひとくちに「時系列」と言っても、
そこには円環する時系列、直線的な時系列などがありますが、
いずれにせよ、「結びあわす力」が発生した結果、
ホモ・サピエンスは「いま・ここ」を生きるだけではなく、
「過去」や「未来」という領域とも“つながり”を見出していくようになったのです。

一方で、では、初期人類の《個別に特化した》世界認識とは、
いったいどのようなものであったのでしょうか?

ミズンの《個別に特化した》という表現では具体的にはイメージしづらいかもしれません。
「原人」の世界認識とは、どのようなものだったのでしょうか?
いまや「無意識」を持ちあわせているわたしたちホモ・サピエンスには、
もはや想像もつかないような世界認識なのでしょうか?

次の章では、「原人」をはじめとする初期人類の世界認識を、
私なりに解釈し直して、述べてみたいと思います。

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4章 原人型世界認識 〜いま、ものがもの「そのもの」であるということ〜

T サルとヒトを分かったもの

「サル(類人猿)」と「ヒト(原人)」を分かったものは何であるか――。
これは、よく議論になる問題です。
数百万年前、「類人猿」と「原人」を分けた要因は何であるか?
わたしは、それは、「意識できる能力」の発生※であると考えています。
言葉を換えると、
いま・ここ」の"ものそのもの"を感受できる能力の発生です。
“はじめの人間”――「原人」は「意識(できる能力)」を持つことになったからこそ、
もはや「動物」ではあり得なくなったのです。

ここで言う「意識」とは、わたしたちが日々の生活の「日常意識」とは、
少々、意味合いが異なるものです。
定義するなら、

目の前の存在ひとつひとつが、それ「そのもの」として輝いている。 「いま」という瞬間が充溢し、自分も自分「そのもの」として、確かに「ここ」に在る。

――このような感覚です。
この「意識」は、普段わたしたちが感じている「日常意識」と、
部分的に重なってはいますが、イコールではありません。
ここでいう「意識」とは、たとえば、日々の生活(時系列)に追われるわたしたちが、
ふと足をとめて立ち止まってみたときに、
忽然と出現しはじめるような「意識」です。

朝の光――
窓からそっと、吹いてくる風。
小鳥の鳴き声。
コーヒーの香り。
サワサワと揺れる街路樹の葉。
子どもたちの笑顔。
一つ一つの輪郭が、みずみずしく光り輝いている、
いま、この瞬間――。

ホモ・エレクトスのこころ

動物であるサルは、朝日を受ける樹の葉の輝きを
「意識」して認識するということはありません※。
サルは、空に拡がる真っ赤な夕焼けを前に、立ち止まったりはしません。
しかし、わたしたち人間は、夕焼けを前に、立ち止まるようになりました。
それら外界を「意識」して認識したとき、伴うのは、こころの動き――「感動」です。
「原人(初期人類)」の時代になってはじめて、わたしたち人間は、
「感動」を持って、外界を「意識できる」ようになったのです。
※では、動物の世界認識をどう表せるかと言うと、ここでは「非意識」と呼ぼうと思います。
動物はもちろん、「無意識」を持っていません。持っているのは、「意識」発生以前の認識――つまり「非意識」です。この「非意識」とはいわゆる、「本能」に基づいています。

わたしは、ホモ・サピエンス特有の「無意識」の本質を、
ものとものを結びあわす力」と定義しました。
初期人類に「ものとものとを結びあわす力(流動的知性、無意識)」が無いということは、
言い方を変えれば、「ものが、ただ、ものそのものである」、ということです。
そのように、発想を転換してみる必要があります。
ここが、重要なポイントです。
そうするとはじめて、見えてくるものがあると考えます。

U 原人型世界認識

目の前の存在ひとつひとつが、それ「そのもの」として輝いている。
「いま」という瞬間が充溢し、自分も自分「そのもの」として、確かに「ここ」に在る。

この「意識」の領域では、すべてが、明晰で、単純です。
「混沌」とは、真逆の世界と言えます。
明るい光に包まれた、世界。
わたしはこの世界認識を、「原人型世界認識」と仮に呼んでみようと思います。

たとえば、いま、目の前にあるリンゴ。
このリンゴを見て、どう感じるでしょうか。
「食べたい!」。
生きていくためには、まず、この感覚が必要です。
もしくは、「いい香りで、おいしそうだなあ」。
お腹に余裕があると、次のように感じることも出来ます。
「赤くて丸くて、まるでさっき庭に転がっていたボールみたいだな」。
もしくは、あまり何も興味を感じずに、ただ記号的に「リンゴだな」と思うだけ、
もしくは目の前にリンゴがあることにさえ気がつかない人もいるかもしれません。
思考がちょっと複雑になってくると、
「真っ赤な、おいしそうなリンゴだなあ、どこが産地かなあ」。
子どもがいる人なら、
「おいしそうだから、子どもたちに食べさせてあげたいな」、
と感じるかもしれません。

動物であるサルからすると、
お腹がすいていて、食べるなら食べる、食べたくないなら食べなきゃいいのに、
と、このような人間の認識の仕方をまどろっこしく思うかもしれません。

しかし、動物であるサルが一番びっくりするのは、
おそらく次のような、人間の認識の仕方かもしれません。
「リンゴが、リンゴそのものとして、いま、ここに在ることが、嬉しいな」。

(――?)
サルはきっと、キョトンとしていることでしょう。
人間はそうしみじみと呟きながら、そのリンゴを前に、
なんと絵の具を用意してキャンバスにリンゴの絵を描きはじめたり、
ノートを用意して、リンゴにまつわる詩を書きはじめたりするのです。

「リンゴが、リンゴそのものとして、いま、ここに在ることが、素晴らしい」、
こころの深い部分から湧いてくる、その深い感動――。
リンゴというものの「存在そのもの(being)」を認識することができた、
その「喜び」。
「原人」は絵を描いたり文章を書いたりすることはしませんが
(そのような芸術行為には、『ものとものを結びあわせる力』を必要とするからです)、
しかし、目の前の対象を、そのものとして認識できたとき「喜び」には、
きっと「原人」と私たちホモ・サピエンスには、共通のものがあるでしょう。

ここで重要なことは、その「喜び」のうちにいるとき、
わたしたちはもはや「時系列」に属してはいない、ということです。
そうではなく、「いま・ここ」です。

いま・ここ」が充溢した世界。
いま」、ものがものそのものである世界。
あなたが、あなたそのものである世界。
そして、
いま」、わたしが、“わたしそのもの”である世界。
真の意味で、外の現実と認識が「一致」している世界。
これが、わたしが考える人間のこころの“原点”――原人の世界認識です。

V ロゴス――存在の輪郭の輝き

“はじまり”のとき、“わたし”が感じたのは、存在の輪郭線でした。
朝の光の中、揺れる樹の葉の輪郭線。
さえずる小鳥の輪郭線。
葉から落ちる、水滴の輪郭線。

「ロジック(論理)」の語源であるギリシャ語の「ロゴス」には、
《言葉》《理性》《定義》などの意味があります。
たとえば《定義》という語は、
ある対象を他のものから区別し、その「輪郭線」を明確にすることを意味します。
その「輪郭線」に“声”がともなったとき、それは《言葉》になります。
そしてそのような働きを司っているのが《理性》と言うこともできます。
つまり、《言葉》《理性》《定義》という語は、
「ロゴス」という一語において、ひとつなのです。

では結局、「ロゴス」とは何か――。
わたしはそれを、
「存在(そのもの・being)を現出させる力」と定義したいと思います。
そしてそれは、
原人の時代に発生した「意識できる能力」と同質のものである、
と言うことができます。
いま・ここ」の“ものそのもの”を感受できる能力です。

「原人」は、まさに“ロゴスの人”です。
しかしその「ロゴス」とは、
堅苦しい「ロジック(論理)」とはまた異なる、
軽やかでみずみずしい、“はじまり”の「ロゴス」です。

その“はじまり”の「ロゴス」とは、
存在を限定はしても、枠にはめ込めてしまうものではありません。
存在を分割はしても、孤立させてしまうものでもありません。
確かに存在を「限定」し「分割」しますが、
しかしそれは「祝福」と「喜び」のうちにおいて、なされているものです。

“はじまり”の「ロゴス」は、存在の「輪郭線」を現出させます※。
※この「ロゴス」の発生に密接な関わりがあるものとして、わたしは左脳側頭葉の言語野「ウェルニッケ野」がある、と考えています。詳しい考察は『マイーム』にて述べてあります。
目の前で揺れる葉っぱの「輪郭線」。
その葉っぱの上できらめく水滴の「輪郭線」。
それら「輪郭線」は、太陽の光の中で、みずみずしく輝いています。
そのとき、“わたし”が感じるのは「喜び」です。
“はじまり”の「ロゴス」に伴うものは、「喜び」です。
そしてその「喜び」の中で最大のものは、
いま、“わたし”が“わたし”であること――その認識(気づき)なのではないでしょうか。

「クリネイン」というギリシャ語には《裁く》という意味があります。
英語の「クライシス(危機)」の語源ともなっている言葉です。
しかし、この「クリネイン」は本来、単に《分割する》という意味でした。
そこから次第に、《裁く》という意味に発展していったのです。
“はじまり”の「ロゴス」は、対象を《分割》します。
しかし、そこにあるのは「祝福」と「喜び」です。
(誕生した赤ん坊の、へその緒を切るように……。へその緒を切るからこそ、
赤ん坊は母親から独立した、“わたし”という存在になることができます)
その行為が《分割》から《裁き》へと変わっていってしまったとき、
「ロゴス」はその本来の輝きを失ってしまい、
そこにはただ無味乾燥な、「存在すること」の重苦しさだけが残ることになります。
「ロゴス」が「喜び」に基づいた《分割》から、
「不安」や「恐れ」や「無感動」に基づいた《裁き》に変わっていってしまうことこそ、
わたしたちが気をつけねばならないことです。

いまこそ、わたしたちは、本来の「ロゴス」を、
再び取り戻す必要があるのではないでしょうか。
自身のうちの“ロゴスの人”を呼び覚ます必要があるのではないでしょうか。
その“ロゴスの人”は、すべての人のこころの中心にひそんでいます。
他者、そして自分自身を「裁く」想いを解きほぐしたとき、
いま、この瞬間にでも、この“ロゴスの人”は立ち上がります。

わたしたちは、言わば再び、
「感動」にあふれたアリストテレスになる必要があるのではないでしょうか。

W はじめに「喜び」があった

外界のものひとつひとつに出現する、「輪郭線」。
“わたし”という存在に出現する、「輪郭線」。
“わたし”という「いのち」の輪郭線。
いま、“わたし”が“わたしそのもの”であること、その「喜び」――。

このような感覚を、ある人は神秘体験と呼ぶかもしれません。
クリスチャンである人は、回心の体験であると言うかもしれません。
しかし、それほど大きな出来事でなくても、
このような「喜び」をわたしたちは、
日々の生活のはしばしで、感じていることと思います。

朝の光――
窓からそっと、吹いてくる風。
小鳥の鳴き声。
コーヒーの香り。
サワサワと揺れる街路樹の葉。
子どもたちの笑顔。
一つ一つの輪郭線が、みずみずしく光り輝いている、
いま、この瞬間――。

もちろん、この章で述べていることはわたしの仮説です。
このホームぺージにおいてわたしが提出しようと思っている、ひとつの仮説に過ぎません。
しかし、もし本当に、
「原人(初期人類)」の世界認識がこのようなものであったとしたら、どうでしょう。
彼らの世界認識は、私たちホモ・サピエンスの想像のおよばない、
ということとはまるで逆、
わたしたちホモ・サピエンスにとって、
懐かしい“ふるさと(原点)”のようなものであると言えるのではないでしょうか。

以下に引用するのは、
詩人まど・みちおさんの「リンゴ」という作品です。

リンゴをひとつ
ここに おくと

リンゴの
この 大きさは
この リンゴだけで
いっぱいだ

リンゴがひとつ
ここに ある
ほかには
なんにも ない

ああ ここで
あることと
ないことが
まぶしいように
ぴったりだ

ものが、ものそのものである世界、
“わたし”が、“わたしそのもの”である世界。
まぶしいように、輝くように、存在と認識がぴったりと「一致」している世界。
そのことが、何よりも、「良い」ことである世界。

過去に何かをしたからではなく、この先何かをするからではなく、
いま・ここ」において、“わたしそのもの”である世界。
まるで、母の手に抱かれる乳児の頃のように……。
そう、「原人」の時代は、言わば、
わたしたち人間(human being)の“乳児”の時代であった、とわたしは考えています。

“わたしは、わたしである……!(I Am that I Am.)”
そう「意識」できたとき、「原人」のうちに、爆発するように「喜び」が噴出した。
そのとき、「サル」は「ヒト」になった――。

誰かに抱きしめられることで、
確かに感じた輪郭線――それが“わたし”。

……

はじめに「恐れ」があったのではありません。
はじめに、「喜び」があったのです。
わたしは、そう、信じています。

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5章 ホモ・サピエンス型世界認識 〜ただ結びあわせよ(Only Connect…)

ミケランジェロのアダム

T ホモ・サピエンス型世界認識

一方で、わたしたちホモ・サピエンスは、
数万年〜数十万年前に起こった遺伝子変異により、
無意識」――「ものとものを結びあわす力」を持ちあわせるようになりました。

ホモ・サピエンスのこころ

「いま」と「かつて/これから」が結びあわされ、「時系列」が発生しました。
昨日、今日、明日。
過去、現在、未来――。
そうして、「物語」というものが出現しました。

いま目の前にある「リンゴ」と、「赤いボール」の“イマージュ”を結びあわせる。
その「赤いボール」と、それを使って遊んでいる「自分」を結びあわせる(かさねあわせる)。
その「赤いボール」が、あらら、「坂道」を転がって――。
と、このようにして、人間の思考は「いま・ここ」の現実から離れ、
自由自在に「あたま」の中を駆けめぐるようになります。
つまり、「いま・ここ」の現実に即さない、
「抽象思考」というものが出現するようになります。

ものとものを結びあわす力」の爆発的増加により、
人間は、必ずしも外の現実(外的現実)に即さなくてもよいようになったのです。

ものとものを結びあわす力」によって、
人間はその「内面」が充実していきました。
いま・ここ」の現実の他に、
自分の「あたま」の中に、もうひとつの現実(内的現実)が出現するようになったのです。
言葉を換えると、人間の内面に、
“自我(ego)”という世界が発生した、と言うことができます。

「内的現実」に基づくこのようなホモ・サピエンス特有の世界認識を、
わたしは「ホモ・サピエンス型世界認識」と呼んでみようと思います。
そうして豊かに生み出されていったのが、
素晴らしい人間の「芸術」や「文化」というものです。

「内的現実」には、さまざまな「記憶」、“イマージュ”が豊饒に蓄えられています。
たとえば、数万年前に、
わたしたちホモ・サピエンスの先祖によって描かれた洞窟画を思い浮かべてみてください。
洞窟の暗闇の中、
火の明かりを頼りに、壁に絵を描いていく。
その現場には、モデルである牛や馬などの動物は実際にはいなかったでしょう。
しかしおそらく、それを描いている彼らには、
闇の中に、生きて動いている牛や馬の“イマージュ”が
(スクリーンに映された映像のように)鮮やかに見えていたのかもしれません。
「内的現実」の充実から、暗闇の中へ、
ほとばしる火花のように生み出された、太古の「芸術」の数々です。

U 「いま・ここ」からの出発

わたしたちホモ・サピエンスは、
いま・ここ」にのみ、とどまることはできなくなりました。
リンゴを食べたアダムとイブのように、
エデンの園(原点)から歩き出さなくてはならなくなりました。
しかしそれは決して「追放」などではありませんでした。
そうではなく、祝福のうちの「出発」でした。
あたたかな母の腕から離れ、
子どもが自分の足で歩きはじめるように……。

自分の足で歩きはじめたわたしたちを、
拍手して祝福してくれている、ひとつの微笑みを覚えてはいませんか?
わたしたちホモ・サピエンスは、ある日、
「いってらっしゃい」と、母親に背中をそっと押されたのです。

すると、家(Home)の外には、星空が拡がっていた。
夜空にまたたく、満天の星。
わたしたちは一度深く息をして、駆け出した。
そうしてわたしたちホモ・サピエンスの“冒険”がはじまりました。

わたしたちホモ・サピエンスは、はるかなる宇宙とつながりあっています。
まど・みちおさんに、「いちばんぼし」という詩があります。

いちばんぼしが でた
うちゅうの
目のようだ

ああ
うちゅうが
ぼくを みている

これは、まどさん自身の、幼い頃の原風景を詩にしたものであるそうですが、
まるで、わたしたちホモ・サピエンスの、遠い原風景でもあるようです。
あたたかなHomeを出発したときの、
リンとした、あの武者震いを、覚えてはいませんか?
わたしたちホモ・サピエンスは、まだ、その“冒険”の途上にいます。

V ふたつの“はじまり”

以下に引用するのは、エスキモー(イヌイット)伝わる“はじまり”の神話です。

《はじまりのとき、動物と人間のあいだには、ちがいがなかった。
その頃はあらゆる生き物が地上に生活していた。
人間は動物に変身したいと思えばできたし、
動物が人間になることもむずかしくはなかった。
たいした違いはなかったのだ。
生き物は、ときには動物であったし、ときには人間であった。
みんな同じことばを話していた。》
(『インディアンの言葉』ミッシェル・ピクマル=編、中沢新一=訳 紀伊国屋書店)

詩的に美しくうたわれた、この「混沌」の世界――。
この“はじまり”とは、
ホモ・サピエンスの“はじまり”である、とわたしは考えます。

ものとものを結びあわす力」の爆発的増加によって、
「すべては“ひとつ”につながり、結びあっている」――という世界認識が出現しました。
それは、言い方を変えると、豊饒な「混沌」の世界でもあります。
《はじまりのとき》、動物と人間のあいだには違いがなく、
人間が動物になることもできたし、動物が人間になることもできた……。

つまり、わたしたち「人間(human being)」には、ふたつの“はじまり”があるのです。
ひとつは、前章で述べた、「原人」としての“はじまり”と、
上の神話に記されているような「ホモ・サピエンス」としての“はじまり”です。

“わたし”が“わたしそのもの”であること。その認識(気づき)の“はじまり”。
“わたし”が“世界”と結びあわされていること。その認識(気づき)の“はじまり”。

前者は、存在(being)ひとつひとつの「輪郭」が、はっきりと明確になっていく世界です。
後者は、存在ひとつひとつの「輪郭」が、“ひとつ”に向かってとけあっていく世界です。

どちらも、わたしたち「人間(human being)」にとって、
なくてはならない大切な“はじまり”です。
ただ、起源としては、「原人」としての“はじまり”の方が古く、
わたしたち「人間のこころ」に限って言えば、
「原人」の“はじまり”の方がより根源的なものである、と言うことができます。

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6章 「人間のこころ」の重層的構造

T、こころの年輪

以上のようなことから、
「原人(をはじめとする初期人類)」とわたしたち「ホモ・サピエンス」は、
その世界認識が「異なっている」という表現は適当ではないかもしれません。
わたしたちホモ・サピエンスの「こころ」は、
樹の年輪のように、重層的な構造になっている。
「原人」の世界認識をその変わらぬ核心部として、
新しい(ホモ・サピエンス)の世界認識が周りを包んでいる、というのが、
わたしたちホモ・サピエンスである、と言えるのではないでしょうか。
人間のこころの重層的構造
わたしたちホモ・サピエンスは、ふたつの世界認識――
「意識」と「無意識」を、その内部にあわせ持っているのです。

さらに厳密に言うと、
わたしたちが普段の生活において感じている「日常意識」とは、
動物がみな持つ「非意識(本能)」と、「原人」の時代にはじまった「意識」と、
ホモ・サピエンス特有の「無意識」が合わさった、
その集合体であると言うことが出来ます。

わたしたちの「日常意識」
=「非意識(動物〜)」+「意識(原人〜)」+「無意識(ホモ・サピエンス〜)」

「ホモ・サピエンス型世界認識」とは、素晴らしい「知恵(サピエンス)」の源です。
この世界認識がないと、ホモ・サピエンスの「文化」の発達もあり得なかった。
素晴らしい「芸術」も、「科学」も、
この新しい世界認識なしには誕生することはなかったでしょう。
ただ、「ホモ・サピエンス型世界認識」は、過剰になり過ぎると危険なのです。
いま・ここ」の外的現実への認識が希薄になったとき、
人間の「あたま」の中では「抽象思考」がはじまります。
「原人型世界認識」が希薄になったとき、
人間の「あたま」の中では「ホモ・サピエンス型世界認識」が過剰に動き出す――、
それは言わば、考え事をしながら道を歩いている状態です。

「原人型世界認識」の喪失は、「こころ」の危機と紙一重である、とわたしは考えます。
つなぎとめるものを失った“自我(ego)”は、とたんに暴走をはじめます。
“自我(ego)”はおのれの内面(内的現実)に過剰な“つながり”を見出すようになり、
そうして、外の現実世界から切り離された「妄想」が拡大していくことになります。

U、“結びあわす”ゆえの、こんがらがり

糸と糸を結びあわすとき、
糸同士がこんがらがって、“玉”になってしまうことがあります。
そんなとき、その“玉”は、なかなか頑固で、ほどきづらい。

ホモ・サピエンスの“ものとものを結びあわす力”は、
私たちの「あたま」にそのような、
こんがらがった“玉”をつくってしまうことがよくあります。
「不安」な気持で慌てて対処しようとすると、
ほぐれるどころか、むしろ“玉の”結び目はギュッと堅くなってしまう場合もあります。

と言うより、
過剰な“つながり”によって、かたくなな“玉”が出来上がるとき、
その背景にあるものこそが、「不安」や「恐れ」の感情なのではないでしょうか。

この“玉”を解きほぐしたいときに必要なものは、
「安心」や「喜び」という肯定的な感情と、「いま・ここ」の外的現実のみずみずしい享受です。
つまり、「原人型世界認識」です。
いま・ここ」の“ものそのもの”への感受は、
「あたま」の中でこんがらがった“玉”を解きほぐす役割を果たしてくれます。
“玉”を切り捨てる必要はまったくありません(また、そうしてはいけません)。
そうではなく、ただ、解きほぐすのです。
こんがらがった糸同士を、再び、もとどおりの糸に解きほぐすということ――。

ではなぜ、
わたしたちの“自我(ego)”はそのような“玉”をつくってしまうのかと言うと、
言わば、「防御スーツ」をつくろうとしている、とわたしは考えます。
自分を圧迫してくる(ように思える)内外の刺激に対して、
身を守ってくれる「防御スーツ」を急いで仕立て上げようとしているのです。

そういう視点から見れば、“自我(ego)”のやってくれていることは、
有り難いことですし、決して責めるべきことではありません。
「生きもの」としての、当然の行為であるとも言えるでしょう。

しかし、わたしはそんな“自我(ego)”に対して、次の二点を提言したい。

まず、そもそもそんなに分厚い服をつくる必要があるだろうか、ということ。
“結びあわす力”を持つわたしたちホモ・サピエンスは、
そもそも「服」を着ていると言えば、すでに着ているのです。
果たしてその上に、まるで「鎧」のようなものをさらにつける必要があるのでしょうか。

“自我”「その通り!必要大ありさ!ここはジャングル、もしくは戦場だ!
     サバイバルなのだから、自分を堅く防御しておく必要があるのさ!
“意識”「なるほど。しかし、ここはそんなに大変な場所だろうか?
     わたしにはそうは思えないのだけれど。ほら、今日もこんないい天気で……」
“自我”「何だ、君は!?まるで裸同然の格好じゃないか!
     よくもまあ、それで歩いていられるもんだ!敵が来ると危ないぞ!」
“意識”「ええ、でも、本当のところ、ここは別にジャングルでも戦場でもないので……」

いまの“意識”の提言は、果たしてわたしの“自我”に伝わったでしょうか。
(いや、しっかりと伝えるのにはもっと時間がかかりそうです!)
“自我”と“意識”にはかなり、その認識に違いがあるのです。

わたしが“自我”に提言したいもう一つのことは、
その『鎧』は、他の人の『こころ』に影響を与えてしまう――ということです。
たとえば、道を「鎧」で歩いている人がいたら、ギョッとするでしょう。
もしくは、自分も「鎧」をつけて自分を護らなくてはいけないのではないか、
と、その人の中で「不安」が呼び起こされてしまう可能性もあります。
他人にどちらかというと否定的な感情を抱かせてしまう可能性が、
その「鎧」にはあるのです。
もしくは、
(これから話すことはホラー映画の話として受け取っていただけたらいいのですが、)
その「鎧」が夜中にひとりで動き出す、ということも、起こるとか起こらないとか。
もはや、本人の意思を超えて、その「鎧」が動き出して、
たとえば近隣の人々を怖がらせる、ということも、
起こらないとも限らない(?)という話です。

いずれにしても、結局のところ、
こんがらがった“玉”を作り出してしまう背景には、
すでに起こってしまった過去への「不安」、
もしくはこれから起こるかもしれない未来への(過剰な)「不安」がある、
と言うことが出来ます。
表現を変えると、それは
いま・ここ」の“ものそのもの”への感受が失われている状態です。

わたしたちの日常には、確かにさまざまな「クライシス(危機)」が潜んでいて、
「防衛スーツ」をつくろうとする“自我”の言い分にも、もちろん一理あります。
わたしが言いたいのは、
たまには、“結びあわす力”も、「いま・ここ」のHomeに還って、
「リフレッシュ」する必要もあるのではないか、ということです。
そう、湯船につかるようにして……。
「ただいま……」とヘトヘトになって還ってきた“玉”を、
(ご苦労様、)と湯船の中でゆっくり解きほぐしてあげるのです。

もちろん、わたしたちの「あたま(内的現実)」の中の“玉”にも色々とあって、
その“玉”が、人それぞれの「個性」をかたちづくっている、と言うこともできます。
こんがらがった“玉”を「コンプレックス(complex・複合体・固定観念)」、
と言い換えるとすると、
「コンプレックス」がその人のユニークな「個性」をかたちづくっていることもあります。

ただ、その「コンプレックス」ゆえに「不安」に駆られて、
自分を《裁く》ことになっているとすれば、悲しいことです。
(わたし自身にも、よくあることなのですが、)
「コンプレックス」のゆえに、自分を《裁いている》とすれば、
表面の目につく範囲で、自分という存在を判断しているに過ぎません。
そうではなく、もっと深い領域から、自分という存在を照らしてみることが必要です。

忙しなく歩き続ける足をいったん止め、
「こころ」を落ち着けて、静かに自分を見つめてみると、
「コンプレックス」という「中途」の領域のさらに向こうに、
“わたしそのもの”の領域があることに気がつきます。
つまり、“はじまり”のロゴスの領域――「原人」の世界認識の領域です。

その領域では、ひとつひとつの存在がキラキラと輝いています。
その領域では、ひとつひとつの存在が、そのもので在って、「良い」――
(と、ひとつの“声”がわたしに向かって語りかけてくれているのを聴きます)。

その最も深い領域によって底から照らされること、
その領域の湯船に、全身全霊で浸かってみること……。
そうすると自然と「不安」は消え、自分を《裁く》想いも解きほぐされていくでしょう。
そのとき、「コンプレックス」は、
もはや単なる「コンプレックス」という名ではふさわしくないのではないでしょうか。
(いい名がまだパッと思い浮かびませんが、
きっと、もっと素敵な、ふさわしい名前があるはずです)

とぐろを巻いた「蛇」はそのとき、空にかかる「虹」になるでしょう。
かたくなな「殻」はそのとき、きらめく「噴水」になるでしょう。
「コンプレックス」はそのとき、本来のハーモニーを豊かに奏ではじめるでしょう。

V、動き出せ、本当の「サピエンス」よ!

「ホモ・サピエンス型世界認識」は、
わたしたちが手に入れたかけがえのない「知恵」ですし、
この認識なしにはわたしたちは生活していくことは出来ません。
しかし、常に「いま・ここ」の“わたしそのもの”――という「原人型世界認識」を
自分の“原点”として、「こころ」に留めておく、
いつでもそのHomeに立ち戻れるようにしておく、
その姿勢が大切であるとわたしは考えています。

「人間のこころ」の“原点”に、「原人型世界認識」をすえる――。
「原人型世界認識」を人間の「こころ」の原点に置くということは、
「喜び」をその“原点”に配置するということです。
はじめに「喜び」があった――。
わたしたち人間の世界認識の根底にあるのが「喜び」であるとしたら、
これほど「ハッピー」なことはないのではないでしょうか。

何かに包まれることで
ぽっかり空いた空間――それが“わたし”。

あたたかな何かに抱きしめられることで、
確かに感じた輪郭線――それが“わたし”。

やさしい何かに微笑みかけられることで、
思わずもらした笑い声――それが“わたし”。

……

繰り返しますが、「原人型世界認識」を失った「サピエンス(知恵)」はこんがらがります。
特にここ数百年、
「(出産を経験しない)男性」の「サピエンス」のこんがらがりには著しいものがあります。
現在、この世界は「サピエンス」がこんがらがっています。
いや、こんがらがった“玉”となって、むしろそのまま「石化」しています。
こんがらがるだけこんがらがって、いまや「サピエンス」はなにものも結びつけない。
“玉”と“玉”が互いの“つながり”を見失い、ポツンと孤立しています。
ものとものを結びあわす力」こそ、わたしたち「サピエンス」の本質であるのに――。

いまこそ、わたしたちは本当の「物語」を取り戻す必要があるのではないでしょうか。
本当の、みずみずしい「サピエンス」を、
自らのうちに取り戻す必要があるのではないでしょうか。
“ただ結びあわせよ。(Only Connect……)”※
いまこそ、わたしは本当の「物語」の出現を希求しています。

 ※《『ただ結びあわせよ。……(`Only Connect……′)』
イギリスの作家E・M・フォースターは、
傑作『ハワーズ・エンド』の扉に、そう書きのこしました。
簡潔きわまりないそのことばから、
子どもとおとなをめぐる本のもっとも大事な主題を引きだしたのは、
魅力にみちたメアリー・ポピンズの物語作者であるP・L・トラヴァースです。
物語作者は言います。本にとって大事なことは、結びあわすこと。
一つの世界を別の世界と結びあわすこと。
既知のものを未知のものと、
激しい懐疑主義と意味を見いだそうとするねがいを結びあわすこと。
そうして、子どもたちとおとなたちを結びあわすこと》
(長田弘『すべてきみに宛てた手紙』晶文社 より)

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7章 いのちの曼荼羅(まんだら) 〜Centering and Orientation.

結局、「無意識」は、「闇」でもなく「サタン」でもありません。
その正体は、「ものとものを結びあわす力」なのです。
わたしたちホモ・サピエンスは、こころの中層部に、
そのような大切な使命を帯びた存在である、と言うこともできます。

ただ、その核心部には、
「原人」の時代から引き継がれた、「いま・ここ」の世界認識がある。
そのことも、決して忘れてはいけない。
「原人型世界認識」と、「ホモ・サピエンス型世界認識」――。
どちらが勝っているというわけではない。
比べることの出来ないもの。
どちらも、そのものとして、かけがえのないもの。
どちらもそのものとして、在って、「良い」のです。
(『いま・ここ』のほとりに佇むとき、わたしはそのような“声”を聴きます)

そのように、言わば、わたしたちは二度(原人のときと、ホモ・サピエンスのときと)、
祝福されて生まれ出てきた存在ですから(ハッピー・バース!)、
これからも、安心して、元気を出して、歩いていきたい、
わたしはそう願っています。

あたたかなHomeを出て、外の世界を体験していく。
そのようにして、“わたし”という「いのち」の曼荼羅を描いていく。

わたしたちは、日々、Centering and Orientation(中心化と方向づけ)。
わたしたちは、疲れたらいつでも、「いま・ここ」のHomeに座ることができる。
(疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう――)
Homeに還り、心身ともに「リフレッシュ」して。
そしてまた再び、元気に、歩き出す。
「いってきます!」、と子どもが家から外へ飛び出していくように。

わたしたち人間(human being)は、その人自身しか描けない、
宇宙にそれぞれただひとつの、「いのち」の曼荼羅を描いていく旅の最中なのです。
中心点を踏まえた上で、そのコンパスの足を出来るだけ遠くまでのばし……。
宇宙にただひとつの円、“わたし”という「いのち」の円を描いていく。
(これまでも、これからも。長い、長いときをかけて……)
インマ

最後にもうひとつ、
まど・みちおさんの詩を引用して終わりたいと思います。

すべての愛すべき旅人へ、
湯船をさしだすことができない代わりに、このまどさんの詩を捧げます。
「ぼくが ここに」――。

ぼくが ここに いるとき
ほかの どんなものも
ぼくに かさなって
ここに いることは できない

もしも ゾウが ここに いるならば
そのゾウだけ
マメが いるならば
その一つぶの マメだけ
しか ここに いることは できない

ああ このちきゅうの うえでは
こんなに だいじに
まもられているのだ
どんなものが どんなところに
いるときにも

その「いること」こそが
なににも まして
すばらしいこと として


以上、「原人型世界認識」について、その要点を簡略化して述べてみました。
詳しい考察は『マイーム』に書いてありますので、ぜひご覧になってみてください。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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参考/引用文献:

  • 『5万年前に人類に何が起きたか?〜意識のビッグバン』(リチャード・G・クライン、ブレイク・エドガー=著 鈴木淑美=訳 新書館 2004)
  • 『心の先史時代』(スティーヴン・ミズン=著 松浦俊輔・牧野美佐緒=訳 青土社 1998)
  • 『対称性人類学』(中沢新一=著 講談社選書メチエ 2004)
  • 『芸術人類学』(中沢新一=著 みすず書房 2006)
  • 『インディアンの言葉』(ミッシェル・ピクマル=編、中沢新一=訳 紀伊国屋書店 1996)
  • 『すべてきみに宛てた手紙』(長田弘=著 晶文社 2001) 
  • 『新訂版 まど・みちお全詩集』(伊藤英治=編 理論社 2001)
  • 『新共同訳 聖書』(日本聖書協会 1987)


Special thanks : まど・みちお