(last update 2008年11月11日)
お久しぶりです。ずいぶんご無沙汰しておりました。
お元気ですか。僕は変わらず元気です。
最近は、“声”を出していくことに、強い関心をもつようになってきました。
言葉を紙に書き記すだけではなく、実際に“声”にしていくこと。
そうして、同じ場、「いま・ここ」というこの瞬間をともにしていくこと――。
そのことに関心があります。
これまで “文字(書き言葉)”を主軸として、自分なりに活動をしてきましたが、
いまは、そのさらに根本にある“声(話し言葉)”、
その(決定的であるともいえる)重要性について、最近よく考えることがあります。
この三年間、僕なりに懸命に文章を書いてきましたが
(もちろん、これからも文章は書き続けていきますが)
あともう少しで“書き言葉”の学びの期間は終わり、
また新たな学びの期間に入っていくような気がしています。
それがつまり、
“話し言葉(声)”という言葉で象徴される領域であると思っています。
その領域にこそ、人が生きるということの本当の手触り、
そのいとおしさがあるのかもしれません。
いままで僕が書いてきた文章は、
いわば資料集、テキストとして用いていきたい。
いままでの考察の蓄積のおかげで、ずいぶん僕自身の語彙も増え、
人に伝えられる材料が増えました。
(結局は同じ“ひとつ”のことを、しかしさまざまな角度から伝え、
表現することが出来るようになってきました)
自分のいままでの文章が、さまざまな対話をはじめていく、
その戸口のような役割を果たしてくれたら、といまは願っています。
たとえば、舞台というもの。
同じ場をともにしながら、“声”を発して伝える舞台に、
現在、大きな関心があります。
音楽活動や、
詩の朗読なども、もちろんそうですね。
また何より、人と直接会って話をする(口で伝える)という、
もっとも当たり前で、基本的なこと。
それを、もっともっと大切にし、実行していきたい、と考えています。
しかし、いよいよそうして“声”を出していく前に、
その発声のための大切な準備として、
これまで自分のこころの深いところで育まれてきた
さまざまな“イマージュ(vision)”を、
視覚化する(visualize)作業が必要である、という気がしてきています。
まだ僕の中に蓄えられているだけである、
大切な幾つかの“イマージュ(vision、像)”を、
あなたの前に明確に差し出すことが出来たとき、
いよいよ、僕自身の“声”を発する準備は、整っていくのかもしれません。
具体的には、たとえば絵本というかたちがいいかな、と思っています。
これから1年ほどは、その「視覚化」の作業をしていこうと思っています。
もしいままで僕が書いてきた文章を読みたいという方がいれば、
immanuel@ima-coco.org
まで、連絡ください。プリントアウトしたものをお送りします。
(詳しくは【まゐーむの本】をご覧下さい)
これら文章をつまみに、お酒でも飲み交わしながら
(もしくはあたたかいコーヒーを飲みながら)、
あなたと、いろいろな対話がはじめられる時を、楽しみにしています。
こんにちは。
「まゐーむ通信」、久しぶりの更新です。
僕は元気にしています。
さまざまな理由が混ざり合ってこころ沈む日も多々ありますが、
それも含めて(つまり、こうしてこころが沈むのも、
いま自分が生きている証として)、
それもひっくるめて、全体として僕は変わらず「元気」だと言えると思います。
ここしばらくの近況報告として一番大きいこととしては、
取りかかっていた小説が(以前このコラムでもお伝えしていたものです)、
無事、完成したことでしょうか。
『カイン・インマヌエル〜いのちの約束』というタイトルの小説になりました。
僕がいままで経験してきたさまざまな、大切な記憶、想いを、
まるい円の上に、そっと配置するような文章が書けたら……
と願いつつ書きました。
僕と同じ時を共有した人は、
ところどころ、
きっと、身近なものを感じる部分があるのではないかなと思います。
(ああ、この言葉、この描写は、あのときのこれか、みたいな)
また、たとえまだお会いしたことのない人でも、
ところどころ、
その人にとって身近なものを感じてもらえるような、
そんな文章が書けたのではないかと思います。
(“大切なこと”というのは、
底のほうできっとつながりあっているはずですから)
これから、たくさんの人に、この小説が読んでもらえたらいいなあ、
と願っています。
ここ数ヶ月の間、いろいろなことを考えました。
いろいろな場所を訪ねました。
お伝えしたいことはとっても沢山あります。
また少しずつお伝えしていければ、と思っています。
ブログ小説『マイーム』は、引き続き連載中ですので、
またお時間あるときに読んでみて下さい。
http://mai-mu.cocolog-nifty.com/blog/
数週間前、ひとつの詩を書きました。
近頃何となく感じている“予感”のようなものを、
とりあえずおおざっぱに、切り取ってみたものです。
読んでみて、いかが感じられるでしょうか。
お互い、どうか、元気に歩いていきましょう。
あなたが、どうか、元気でいてくれることを、願っています。
……
〜メランコリーの戦士〜
あたまにずっと
白い靄がかかったようだと
青白い顔で力なく笑った君は
誰かを助けに行っている
今日も君は力なく
蒲団の洞(ほら)に沈み込み
必死で浮き上がって 夕べの食事をとる君は
誰かを助けに行っている
夢の中でちいさなともし火を見つけた
その光に懸命に手を伸ばすようにして
目を覚ました君は
夜明け前誰かを助けに行っていた
知らず知らず
いのちを削るようにして君は
誰かを助けに行っている
君はぼくを助けてくれる
メランコリーの勇士
メランコリーの勇士よ
君はぼくを助けてくれる
メランコリーの戦士
メランコリーの戦士よ
こんにちは。
当ホームページでもお知らせしていた
『マイーム〜「いま・ここ」に在る喜び』という小説を、
ブログにて連載していくことにしました。
『マイーム〜』は、
「いま・ここ」を古人類学、脳科学の見地から述べたもので、
「原人型世界認識」の詳細な考察を試みております。
かたちとしては、簡単な小説仕立てになっています。
週2回更新(月・木)。全部で45回になる予定です。
毎回、結構な分量になると思います。
お時間のあるときに、読んでみて下さい。
舞台は、初夏の札幌――。
7月のよく晴れた日曜の朝から、物語は始まります。
寒さがピークのこの2月に、初夏のさわやかな(?)風をお送りしたいと思います。
お楽しみに(してくれたら、嬉しいなあ)!
(ああ、ウェルニッケ、ウェルニッケ野!)
『マイーム』ブログはこちら http://mai-mu.cocolog-nifty.com/blog
こんにちは。
いかがお過ごしですか。
僕は元気にしております。
ここ数週間は、ずいぶんといろいろなことを考えていました。
仕事の方も沢山やることはあるのですが、
それらをがんばってこなしつつ、いろいろと考えることを続けていました。
(また、その仕事の時間が、大切なヒントをくれることもあります)
24時間態勢で、こころの“地下水”は流れ、動いている感じです。
小説を書こうと決めてからアンテナが敏感になったのか、
ずいぶんとまた新しく、いろいろなことがつながってきてもいます。
僕の地元は大阪の富田林市というところで、
PL高校や花火で有名な、PL教団の本拠地であることで知られています。
高度経済成長とともに、丘陵に次々と住宅やマンションが建てられ、
パッと見ると、比較的新しい街という印象を受けます。
しかし、その新しい住宅街の隙間から、その土地が本来持っているもの、
古代から続くその土地の空気といいますか、そういうものもまた感じられ、
最近はその土地自身が放っている“声”のようなものに、
アンテナを慎重に向けてもいます。
たとえば、僕の実家の周辺には、古墳がたくさんあるんですね。
それも小規模な、誰のお墓か分からない古墳なのです。
つくられたのは、2世紀から7世紀の間だということが分かっています。
時代で言うと、弥生時代後期、古墳時代、そして奈良時代に該当します。
堺市の大仙陵などの由緒ある古墳はいまも宮内庁に保護され、
堂々とした風格を放っていますが、
富田林の古墳は誰からも顧みられず、放置されている状態です。
公園の隅に(古墳のある場所は、不思議なことにだいたい公園になっています)、
ちょこんと遺された古墳には、独特の味わいとともに、どこか淋しさがあります。
また、『古事記』の中に、ヤマトタケルの魂が白鳥になって舞い降りた、
「羽曳野丘陵」という丘が出てくるのですが、
実はいま住宅やマンションが建ち並ぶこの富田林の丘陵こそが、
その羽曳野丘陵であったりもします。
ここ数週間は、小学校時代からいっしょの友人2人(K君とT君)と、
それら丘陵の古墳を回ったり、
地元の小さな山(神奈火山)や神社を詣ったりしています。
さまざまな土地にこちらから出向いて、足で踏みしめて、空気を吸って、
何かを感じ取ろうと試みています。
僕が、大切なキーワードだな、
と思う言葉のひとつはやはり、「水(まゐーむ)」で、
その「水」ということを中心に置いて見つめると、
見慣れた街の風景が一変し、本来の素顔をかいま見せてくれるような気がします。
富田林に限らず大阪という地を、
また近隣の奈良や京都や兵庫という関西の地を、
「水(真奈井、泉、井戸、ゐ)」という視点で見つめると、
いろいろなことが見えてきそうです。
「水」の特徴は、“歴史には残らない”という点です。
言語化されにくい、目に見えるかたちでは残りにくい。
しかし、その「水」こそが、僕たちの歴史を底辺から支えてもいます。
(目には見えない“祈り”が、僕たちの歴史を支えているのと同じように)
僕はいま、歴史には残らなかった歴史、
この日本という国の底に流れる“水の祈りの歴史”を、
富田林を貴重なサンプルとして、再び見出そうとしているような気がしています。
まだ推論段階ですが、
かつてはこの富田林という地も、
「水」と深いつながりがあったのではないかと考えています。
放置されている古墳群は、どうやら「水の祭祀」ということと
関係がありそうなのです。
そして「水」を守り、指さしているのは「火」です。
奈良や大阪の代表的な山々は、
ほぼ「火山」と関係のあるようです。
それら火山の頂上には、“湧き水”があることが多い、というのも共通点です。
「火」と、「水」――。
いのちの「水」を、「火(や岩、樹)」は“不動”の姿で守り、
指さしているようにも見えます。
“いのち”を指し、祝福する、神々の磐座(よりしろ)です。
この日曜日は、大阪府と奈良県の境目にある「二上山」に、
K君T君と登りに行く予定です。
(いやあ、楽しみ!)
古墳を巡っているときや山を登っているとき、
僕たちはもうまるで小学生に戻ったように、ワクワクしています。
斜面を上り下りしながら、
思わず走り出したり、奇妙なダンス(?)を踊ったりもしています。
またそんな僕らを、大地は微笑みながら受け止めてくれている、
という実感もあります。
ニュージーランドのマオリ族の言葉で「水」は《ワイ》と言い、
「記憶する」、あるいは「過去を思い出す」という意味があるそうです。
“歴史には残らない”「水」ですが、
しかしその他ならぬ「水」こそが、「記憶」と関係があるという側面がある。
「水」が「記憶」を蓄えている、
「水」に焦点を合わすことで、思い出すことがある……。
(存在したものが、あたかも存在しなかったかのように、
されてしまうことが、ないように。
すべての存在が、“そのもの”として存在し、
かつ、これからも存在し続けるように。
存在が、あたかもはじめから存在しなかったかのようにされることが、
決して、ないように。……)
そういう意味で、最近はなかなか《ワイ》な日々です。
これからもますます、《ワイ》であれたら、と願っています。
そして、いろいろなことが明らかになったら、
再びK君T君と、地元の古墳に花とお酒を持って詣りたいと思っています。
古墳の傍らで、いっしょにお酒を飲み交わしたいと思っています。
そして、彼らの名前を呼んであげたい。
忘れられてしまった彼らの「名」を。
(誰ひとり欠けることなく、
ひとりひとりが、いまここに、存在している。
過去も、現在も、そして未来も。
誰ひとり欠けることなく。
みんないる、いま、ここの周りに、丸く輪になって。
みんないる、みんながいる。……)
ここしばらくが、踏ん張りどきでしょうか。
もちろん、存分に、このいまのいのちを“en−joy”しつつ。
どうも、皆様、年のはじまり、いかがお過ごしですか。
僕はすこぶる元気にしております。
昨年の12月に地元の大阪に帰ってから、20日ほどが経ちました。
新居は中津という場所で、
梅田から歩いて10分ほどのところです。
マンションのすぐそばには、淀川が流れています。
歩いてすぐ都心部の梅田に行けるので、なかなか快適です。
賑やかな大阪の街の中を歩きながら、
再びこの場所に戻って来られたことを、本当に、嬉しく思っています。
平日は新居2階の事務所で出版社の仕事をし、
(キリスト教関係の、小さな出版社です)
週末は実家に戻って
(実家は梅田から電車で40分くらいの、富田林というところにあります)、
家族と過ごしています。
地元の親友(同志でもあります)たちとも、さっそく、
ビールグラスを片手に、「乾杯!」を重ねています。
そのようにして、日々の生活を喜びつつ(本当に、感謝!)、
こころの深いところでは、地下水脈が活発に動きだしているのを感じています。
この地下水脈と24時間向き合っていると、
自分がやらなくてはいけないことが、少しずつ見えてくるような気がします。
ただ、それはあくまで地表には見えないものですから、
自分以外の人に、その流れを理解してもらうのは難しいことです。
しかし、だからこそ、この領域でしか達成できないこともあるのでしょう。
さて、その地下の水の流れの一環として、
数日前から新しい小説を書き始めています。
それは、いままでに書いた、
『ネアンデルタールの夕べ』『マイーム』『指さしうた』という自分の文章を
一つの「場」にくくろうとするものであり、
また、僕が札幌の生活を通して出会った人々の言葉、想いを、
一つの「場」にくくろうとするものであります。
新しい小説の構想を練れば練るほど、
自分ひとりで書く小説であるとは、まったく思えなくなるのです。
ある人が僕に向かって言ってくれた言葉、
それら言葉ひとつひとつが、美しく、輝いて、
小説を埋めていってくれるようなのです。
あなたが、僕に向かって言った言葉、
――それを、僕は覚えています。
もちろん、すべての言葉を覚えられるわけはないのですが、
ただ、僕は、あなたが僕に対して言ってくれた言葉、その瞬間の想いを、
“流す”ことはしたくない、そう常に想っており、
だから、僕は、あなたが言ってくれた言葉、たぶん、覚えています。
そして、その言葉、想いのひとつひとつが、
小説の場を埋めていってくれるようなのです。
たとえば、Yさんが僕に向かって言ってくれた言葉、
――すべての色がそろったとき、それは「白」になる。
逆に言うと、すべての色がちゃんとそろわないと、「白」にはならない。
Yさんは、そう言ってくれました。
様々な色を配したコマを回すと、それは白色に見えます。
違う色同士を混ぜ合わせ、別の色にしてしまうのではなく、
(そうすると、濁ったような黒色になってしまいます)
ひとつひとつの色が、「そのもの」として、ちゃんと居場所を与えられたとき、
それは輝く「白」色となる。
また、ひとつひとつの色は、
コマの中心をしっかりと踏まえていなくてはなりません。
中心をしっかりと見いだせたとき、
(中心を見いだせたということは、
自分の居場所を見いだせたということになります)
ひとつひとつの色は、無理をして自分以外の他の色になる必要はないことを知り、
自分の色が「そのもの」としてあることを喜び、輝くのでしょう。
そして同時に、その喜びがひとつの場にくくられて、
「白」色として輝いていくのでしょう。
僕につながるすべての人の、そのひとりひとりのこころの地下水脈に流れる、
「白」への祈りに、耳を澄ませていたいと思います。
それは、確かに、はっきりと存在している――。
札幌での生活を通して、僕はそのことを確信しました。
その「白」への祈りを、
僕は札幌の生活で出会った人々の、こころの中心に、確かに聴いてきたのです。
あなたが放ってくれたその想い、
その想いを結びあわせて(ひとつの『場』にくくって)、
僕に、ひとつの小説を書かせて下さい。
あなたが僕に向かって言った言葉、それを、僕は覚えています。
世界はあまりに素晴らしく
僕はその素晴らしさに気づききれない
でも 遠く耳もとで
その予感が 確かに瞬いている
この世界はあまりに美しく
僕はその美しさを感じきれない
でも はるか目の前で
確かな予感が 輝いている
(きらきらとその予感が……)
立ち止まり
僕は耳を澄まそうとし
この世界の 本当の
“そのもの”の美しさを感じようとし
僕は立ち止まり 耳を澄まし――
たとえば あなたを前にして
僕はあなたといま共にいることの尊さに
その輝きに
目がくらんでしまうのだろうか
あなたといるこの瞬間を むしろ
当然のこととして 受け流してしまうことも多く
世界はあまりに素晴らしく
あなたが存在していることがあまりに尊く
僕はその “そのもの”の尊さを受け止めきれず
しかしいま
こうして机の前で こころ静かにしていると
かろうじて その素晴らしさの一端を 追憶できる
この生が終わるとき
僕はその美しさを 余すことなく追憶できるのかもしれない
けれども 出来ることなら
この生の このただ中で
その素晴らしさを 気づいていたい
この生のただ中で いま
気づきたい
感じていたい 記憶したい
きっと
この世界はあまりに素晴らしく
その “そのもの”の素晴らしさを
いくら強調しても し過ぎることはないのだろう
このいのちの中心で
あなたを感じとりたい
ぼくとあなたのいのちよ
この中心点から きらめく噴水のように
水しぶきを 空に輝かせよう
あなたの
あなた“そのもの”の いのちの輝きを
ぼくは
見ていたい
感じていたい 記憶したい
僕が出来る限り
いま ここの中心点で
僕が出来る限りの……
(――We are “off-spring” of eternal life!)
おとめの名はマリアといった。天使は彼女のところに来て言った。
「おめでとう、恵まれた方、
主があなたと共におられる(インマヌエル)」
(ルカによる福音書1章28節)
*
インマヌエルとは、ヘブライ語で「主がわたしたちと共にいる」という意味です。
神は、わたしたちがどこへ行こうとも、
わたしたちと共にいる――。
イエス・キリストは、インマヌエルとも呼ばれます。
イエス・(インマヌエル)・キリスト。
これが、本当の、イエス・キリストの名前なのかもしれません。
キリストの名前の中心には、
見えない言葉で、(インマヌエル)と書き記されています。
(あなたは、いつもわたしたちと共にいる……)
クリスマスとは、存在の喜びです。
わたしがわたしであることの、存在の喜び、
あなたがあなたであることの、存在の喜び。
クリスマスとは、存在の輝きです。
わたしがうまれ出てきたこと、
あなたがうまれ出てきたこと、
その輝き、輪郭線の、聖なる輝き。
「メリー・クリスマス!」と僕は僕自身に、
また、あなた自身に、ことづけたい。
僕の存在の中心と、
あなたの存在の中心とで、互いに笑いあいたい。
僕たちひとりひとりに、
クリスマスの物語が、在る。
僕には僕のクリスマスの物語が、
あなたにはあなたのクリスマスの物語が。
(僕は、僕のクリスマスの物語を描こう)
天使ガブリエルは人間に伝えた。
「おめでとう!恵まれた方、
主があなたと共におられる(インマヌエル)」――
もし僕が、何か言うとしたら、「インマヌエル」。
もし僕が、何か書くとしたら、「インマヌエル」。
僕が、もし何か歌うとしたら、「インマヌエル」。
僕がもしも、踊れるとしたら、やっぱり、「インマヌエル」。
僕は僕自身に、また、あなた自身に、そう、ことづけたい。
喜びは、いつも、
わたしたちと共に、在る。
メリー・クリスマス。
来週の12月6日(木曜日)に種太郎がライブをします。
この日を境に、
しばらくぼくたち4人、種太郎としての活動はしなくなると思いますので、
ぜひ遊びに来ていただけたら、と思います。
と思います!
……
『種を蒔く人への祈り』(種太郎ワンマン)
2007年12月6日(木)
場所:161倉庫(北16条東1丁目西沢水産ビルB1F)
open:19:15 start:20:00
adv/door \500
opening act有り(開演時間前の出演です)
……
スタートは20時ですが、スタートの前に、
30分ほど、小粋なオープニングアクトがあります。
時間に余裕のある方は、
早めに(19時20分くらいに)会場に来ていただけると、
有難いです!
と思います!
来月12月8日(土曜日)に、僕の主催の夕べの会を催します。
タイトルは「ネアンデルタールの夕べ」。
内容は、わたくしによる詩の朗読と歌、です。
場所は、cafe ICHIDA。
道立近代美術館の近くの、蔦のしげった建物二階にある、素敵な喫茶店です。
…
2007年12月8日(土曜日)
「ネアンデルタールの夕べ」
詩の朗読と歌の会。〜「いま・ここ」への夕べの礼拝。
場所:cafe ICHDA(札幌市中央区北1条西18丁目1−52)
http://www3.plala.or.jp/ICHIDA/
18:30 開場
19:00 開演
20:00 休憩
21:00 終了
入場 1500円 (お飲み物一杯つき)
主催:まゐーむ
…
席数が限られていますので、
もしご予定が合って、きていただけるという方は、
早めに以下までご連絡くださいませ。
090-5975-1481
immanuel@ima-coco.org(鈴木)
まゐーむ:http://www.ima-coco.org